禅語から学ぶ、アンドロイド観音が「空」を教えられない理由!「仏教」と「広告」を考える。
ついに出た!最新テクノロジーと仏像の融合「アンドロイド観音」!
(出典:産経WEST ©2020-2021 The Sankei Shimbun)
発表したのは京都にある臨済宗建仁寺派のお寺、「高台寺」。豊臣秀吉の正室・ねね様ゆかりの地として知られ、京都有数の観光スポットだ。
先日イベントにてお披露目された際には、巨大モニターをバックに「空」や「煩悩」といった仏教用語を教える「法話」を行った。
この世界初のアンドロイド観音、名前は『マインダー』。開発費はおよそ1億円という。
「高台寺」は寺内の庭や竹林が美しいことが有名で、夜間にはライトアップが行われ毎年多くの観光客が訪れる。以前から音楽や映像による巨大なプロジェクションマッピングを行うなど、アートイベントにも積極的に取り組んできた。
今回も「仏教を知るキッカケ」になるべく、広告の一環として開発されたのがアンドロイド観音『マインダー』だ。
あくまで広告にすぎないわけだが、それでもニュースを見ていて疑問に思った方も多いのでは?
「アンドロイドって、仏教理解できんの?」
と。
いきなり結論になるが、答えは「NO」だ。
そのわけは、有名な禅の四聖句『不立文字』『教外別伝』『直指人心』『見性成仏』の意味を読み解ければ一発で理解できる!
これさえ押さえておけば、あなたもドヤ顔で仏教マニアの仲間入りだ。
今や世界規模での人気を獲得している禅の世界。「人から人へ受け継がれる」ことでのみ得られる「悟りという体感」のシンプルだけど深淵な教えが語られる。
アンドロイドが「空」を教えられない理由、はじまるよ!
目次
そもそも仏教には「広告」がつきもの
仏教の世界では、いつも大衆への「広告」があの手この手で行われてきた。
たとえば、有名な「般若心境」や諸経の王とも呼ばれる「法華経」がそう。
「般若心境」はお釈迦様の教えを分かりやすく約262文字にまとめた「サプリメント」的なものだし、「法華経」は逆にスター・ウォーズもびっくりな長大な「ファンタジー」世界。どちらも仏の教えを世に広めるために、後世の人々が残したものだ!
現代の視点から見れば、あの世を謳った「極楽浄土」なんかも、大衆に興味を持ってもらうために用意されたVR空間のようなものだとも捉えられる。
日々の生活にあくせく四苦八苦している人々に振り向いてもらうために、今も昔も、いかに「仏の教え」を広めるかに心を砕いていた「仏教セールスマン」がいた!というわけだ。
今回のアンドロイド観音『マインダー』も、そういった脈々と行われてきた「仏教セールス」の一環として捉えれば、さほど驚くことではないかもしれない。
2016年にはAIロボット「ソフィア」が「人類の滅亡」を宣言して話題になった(すぐにジョークだと否定していたけどw)。いずれAIが搭載された仏像がしゃべりだすのも、もはや時間の問題だったとも言える。
仏教の世界には、思いのほか「広告」的な役割をしているものが多いと考えれば、現代仏教に「釈迦の教え」からは逸脱した的外れな慣習が多いのも理解できるのではないだろうか。
髪の毛を剃る剃髪、荒行・苦行の数々、延々と唱えられるお経、浄土信仰というスピった世界観、高額の墓石が立ち並ぶお墓などなど・・・。
「あれ?そんなことお釈迦さまは教えておられませんよね?」
という疑問に、仏教を学ぶと誰もがつきあたる。
宗教法人として国からも保護される存在で、「葬式仏教」となにかと揶揄されがちな現代日本の仏教社会。
どれもこれも「釈迦の教え」をなんとかかんとか次世代へバトンリレーさせるための「広告」だったのだと理解すれば、納得できるのではないだろうか。
ウォーリーを探せ!並みに埋もれてしまってはいるが、それでも本来お釈迦さまが教えたことが”ひとしずく”でも後世へ伝わればいい・・・。
そのくらい仏教の歴史というのは、「広告」なしにはやってらんねえ!出来事の連続。
その真髄を受け継ぐことは、最難関にむずかしいことだったのだ。
その代表格が、『禅』である!
『禅』の「絶滅」と「逆転劇」
現在、シリコンバレーのエリート層から、ヨーロッパの座禅愛好家にまで広まっている『禅』は日本のものだ。
しかし、仏教の発祥といえばインド。そして日本の仏教は、ほとんどが中国から持ち込まれた「輸入品」だ。
どうして『禅』は日本のものなのだろう?
実は禅は、はじめに中国で発展した後に「絶滅」している。かろうじて日本に渡ったその思想が、鎌倉時代に将軍や大名に受け入れられ、室町、江戸を通り現代にいたるまで生きながらえてきた。
明治には海を越えてその教えが広まり、60年代のヒッピームーブメントや、80年代以降のシリコンバレーの興隆、2000年以降の座禅ブームにつながり、今日のような世界的な人気を獲得したというわけだ!
アンドロイド観音『マインダー』を発表した「高台寺」も臨済宗。禅宗のお寺だ。
この禅を開いたのは、南インド出身の達磨大師。あのダルマのモデルになった人だね。
達磨大師はペルシア、現在のイラン辺りの出身で、中国へ渡り『禅』を広めたと言われている。
たしかにこのヒゲと胸毛・・・、そして真っ赤なキトンを羽織った迫力満点の姿は、東アジアではお目にかかれそうもないよね。一説によれば「その目は青かった」とも伝えられている。
禅は中国で人気を得る。その内容は座禅を中心としたシンプルなものだった。
- 体感を重視し、悟りへ向かう。
- 日々の暮らしの中で、掃除などの雑用も修行ととらえる。
- 弱者救済を説く「あの世」や、過度なお布施も一切なし。
人間の生活に根差した、『空』をより体感するための硬派なスタイル。それが現代まで続く禅の人気の理由だろう。
しかし、6世紀ごろから続いた人気も、12世紀ごろには下火に・・・。やがて中国での禅宗の活動は衰退し、終わってしまう。
衰退の理由は諸説あるが、やっぱり禅の教えが当時の人々にとってはあまりに硬派だったからだと思う。
禅の硬派さを物語るエピソードがある。
中国へ渡り、高僧として名をとどろかせていた達磨大師を、梁(りょう)の皇帝「武帝」が城に呼び寄せて尋ねた。
武帝「オレは皇帝だ。即位してからこのかた、めっちゃお布施もしたし、めっちゃ寺院も立ててきた。写経もめっちゃしてるし、僧侶たちへの援助もめっちゃしてきた。こんなに仏教を援助したヤツ、たぶんいないんじゃないかな~。オレくらいだと、思うんだよね~。ねえねえ、達磨、もしかしてオレって、めっちゃ功徳積んじゃってない?ねえねえ、達磨、オレって、やばくね?もしかして来世とか、やばくね?」
達磨「なんの功徳もないっすよ」
武帝「え?今、なんて・・・」
達磨「なんの意味もないっすよ」
武帝「ふぇ?」
達磨「功徳とか、来世とか、ないっす。釈迦はそんなこと言ってないんで」
武帝「・・・」
これである。時の皇帝にこの発言だ。
即刻首をはねられてもおかしくない場面で、全く権力にこびないこの発言。これほどまでに大物感が漂うエピソードも珍しい。気持ちよくて仕方がない。
そばで見ていた弟子たちもきっと
弟子たち「言っちゃったーー!!!師匠言っちゃったよーー!!!かっけえええー!!!」
と、胸の奥でガッツボーズしたのではないか。
禅の「本質を貫く硬派さ」と、「でもなんとなく弾圧されちゃいそう」な雰囲気の両方を垣間見ることのできる鮮烈な右ストレートエピソード。
発祥の地・中国では衰退した禅だが、日本に渡り生き延びた。そして20世紀には世界的に広まり、今や『ZEN』として国境を超えて受け入れられている。
科学が発達し、「魂」や「心」といったあいまいな宗教概念が否定された20世紀。それでも止まない「思考」から、どうしたら自由になることができるのか?
頭のコンピュータに頼るあまり、ついつい「道具のように」人生を生きてしまいがちなことに気づいた現代の人々にとって、『ZEN』の実践的な教えは画期的だった。
1000年以上の時差で、ようやく大衆が達磨大師に追いついてきたのだと言える。
派手な装飾や、人々を惹きつけるファンタジー世界を安易に作らなかったことが功を奏し、多くの人々に受け入れられることになった。禅の「硬派な仏教セールス」は絶滅の危機から一転、人間の本質を貫く『ZEN』として大逆転で成功をおさめたことになる。
その禅の教えの根幹にある考え方が
『不立文字』『教外別伝』『直指人心』『見性成仏』
の四聖句に込められている。
禅の四聖句「おめえの体で体感するしかねえ!」
不立文字「大事なことほど言葉にできねえ」
ひとつずつ手短に解説してみよう!まずは「不立文字(ふりゅうもんじ)」から。
その意味は
「一番大事なことは言葉になんてできねえ」
これである。
言葉にしない、のではなく、言葉にできない、のである。
この記事に当てはまるよう言い換えれば
「アンドロイドがいくら流暢に語っても、その言葉の中に”悟り”はねえ」
となる。
言葉にできた時点で、ほんとうに大事なものはこぼれ落ちてしまう。
それは裏を返せば、言葉にできない大事なものを感じとる生きものが人間だということだ。
禅は、人間が持つ「感性」を大切にしている。文献に残る理論や、座禅などの体育メソッドも、あくまで一番大事な「体感」へたどり着くためのアシストでしかない。
「これさえわかればOK!」
なインスタントな教えは、禅の前では通用しないのである。
教外別伝「師匠からカラダで教われ」
続いて「教外別伝(きょうげべつでん)」
その意味は
「師匠のカラダから、おめえのカラダで直に教わって体感しろい!」
である。
「不立文字」と同様に、一番大事なことは言葉では伝えることができない。
ではどうすればいいのか?
言葉以前の感覚で教わるのだ。そのための目印となるのが「カラダの体感」である。
しかしひとりで修行していても、悟りを体得できる可能性は極めて低い。なので、師匠から直に教わることが大切だ。それ以外に凡人が悟れる道は無いという、厳しくも現実的な教え。
自分よりもすでに先に修行を体得した先達者のそばで、直にそのカラダからあの手この手で教わり、自分のカラダで体感をえること。
それが「教外別伝」である。
この記事に当てはまるよう言い換えれば
「アンドロイドの体じゃ、おめえの体感と違いすぎて意味ねえ!人間の師匠を探して教えを乞え!」
となる。
あくまで人間の体が持つ高度な可能性を大切にした教えなのだと読み解くことができる。
直指人心「おめえの体感しか、おめえにはねえ」
続いて「直指人心(じきしじんしん)」
その意味は
「いくら周りを気にしても、それを感じてるのはおめえだけ!おめえのカラダの体感に問いかけろい!」
である。
「たしかに」と言わざるを得ない。自分が経験したことはすべて、自分のカラダで体感したこと。そこに例外はない。
誰もがこのカラダから出たことはなく、他人のカラダに入ることもない。
だからそのカラダの事実を見つめることが大事なのだ。
この記事に当てはまるよう言い換えれば
「アンドロイドのスケルトンボディなんか気にしてねえで、おめえのカラダで感じたことから問いかけろい!」
となる。
よそ見しやすい現代人には、非常に耳の痛い核心を突いた言葉ではないだろうか。
見性成仏「カラダが勝手に動く事実に気づけ」
最後は「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」
その意味は
「カラダが勝手に息してる事実に気づいたら、もうおめえは成仏したも同然よ!」
である。
座禅やお経や苦行に意味はない。
そのカラダが、自分の「思考」や「意志」とは関係なく動いていること。
心臓が動き、汗をかき、腹が減り、息をしながら生きていること。
その秩序を明らかに見れば、それはもう成仏しているも同然なのだ、ということ。
どこかにたどり着くのではなく、はじめからそこにあったカラダに気づくことが大事なのである。
この記事に当てはまるよう言い換えれば
「ほっときゃ電源が切れるアンドロイドに、成仏の道があるはずがねえ!」
となる。
お経を唱えなくても、掃除をしたり日々の暮らしの中でカラダを動かすことで、実は悟れちゃうんですよ、という教えでもある。
だってロボットだもん
禅の四聖句、いかがだっただろうか?
分かったような、分からないような、そんな気分になるはずだ。
だってそれは「不立文字」。言葉にできない世界がそこにある。
Appleの創業者スティーブ・ジョブズも、禅僧を師と仰ぎ、多忙な毎日の合間を縫って禅寺へ通っていたことは有名な話だ。
徹底的に突き詰められた頭の「思考」。しかしそれでは辿りつけない境地があることを、ジョブズは知っていた。彼が世に送り出した革新的で美しい製品の数々をみれば、それは明らかだ。
アンドロイドが「空」を理解できない理由。その答えはシンプルに
ロボットは「人体」ではないから
である。
禅の教えが指し示すように、言葉の世界におさまるものではなく、このカラダで「体感」すること。
それがお釈迦様の教えた「空」の感覚である。
なぜお釈迦さまの仏像がいつも「座禅」のポーズをしているのか。その意味も、ここから読み解けるはずである。
人体がもつ”高度な”計算機能。AIを搭載したアンドロイドを遥かに凌駕するテクノロジーが、この「人体」なのである。
お釈迦さまはそのことを「空」という言葉で2500年前にすでに指し示していた稀代の科学者であり、教育者だったというのが2039.jpの見解だ。
カラダがなければ、言葉もない、AIもない、アンドロイドもいない。言葉より以前に、カラダがあるし、「わたし」や「セカイ」より以前に、カラダがある。そのあたりまえの事実から、どうにもズレてしまうのが人の日常ではないか。
そのズレを徹底的に見つめ、解き明かし、教えていたのがお釈迦さまだったのではないか。
これはあくまで多層的な仏教理解のひとつ。
そのことを理解した上で、「この私とはなんなのか?」を「このカラダとはなんなのか?」に問いかえてみることは、アンドロイド観音と共生してゆかなければならない21世紀の私たちにとってとても有益なんじゃないかと思う。
少なくとも、どうせ教えを乞うならば
冷たいスケルトンボディではない温かい人間から、私は教わりたい。