映画「美しき緑の星」が発売禁止になった理由【切断の真意】とは?

最近スピリチュアル好きな人に人気で話題にされている映画

「美しき緑の星」

監督・主演はコリーヌ・セロー。
1996年に公開されたこのフランス映画は、
コリーヌ・セロー自身がクレイジーな映画を作りたかったということで作成された。

すると・・・

なんと予言通りにクレイジーで上映前に中止され発売も禁止されてしまった!

そんな数奇な運命をたどったこの作品。
以前、解説動画をつくったわけですが、

 

ちょっと長くなっちゃたんだなww
ってことで、

25分は長いよ!って方のために今回は解説記事をかいてみたよ。

 

「美しき緑の星」解説はじまるよ!

あらすじ:別惑星の人間社会を描いた幻のフランス映画

この世の中から葬り去られて発禁となってしまったわけだが・・・
実はけっこう有名な俳優も出ている映画で、2回くらいテレビで放映されたこともあるみたい。

ストーリーをざっと見ていない人のためにお話しすると、
地球とは別の惑星に僕らのような人間が住んでいるという設定になっている。

そして「彼ら」、いわゆる「宇宙人」の暮らしというのは、地球の社会文明とはまったく違う。

まず一つ言えるのは、貨幣制度がないんだ

全く違う暮らしをしている別の惑星の人たち。
その人たちは地球よりもずっと文明の進んだ暮らしをしている。

彼らは惑星間の移動もすでに出来るようになっているので、
そこでは僕らでいう海外出張みたいな感じで、惑星に出張したり、惑星に派遣されたりするんだ。

映画の序盤では、誰がどこの惑星へ行こうか決めるところが描かれているんだけど、

「誰か、なんとか星に行きたい人〜?」

みたいな話をしているところ・・・

なんと地球に行きたい人が一人もいない!

それもそのはず、彼らの中では地球というのは野蛮な民族が暮らしている惑星だというイメージで・・・。

そんな中、一人の女性が「まあ、行ってもいいですよ。」と手を上げる。

(引用元:DVD美しき緑の星,©コリーヌ・セロー,やつは株式会社)

それが主人公のミラ。
そして地球に送り出されていくというストーリー。

そこで、全く違った価値観というか、地球の常識社会というものにその宇宙人の女性が色々とビックリする様を、コミカルに面白おかしく描いた映画なんだ。

僕らが当たり前だと思うことが彼らから見たら異常というか、

「えっ!?なんでそういうことするの?」

みたいな、信じられないことが多々あるんですよ。

プラネットギャップみたいな。

そこがね、地球人気づかされちゃう映画なんだよね。

瞳のシンボルに隠された意味

※ここからはネタバレも含むから見てない人は気を付けてね♪

まずこの映画の一番最初の出だし、どんな始まりだったかを
観たことのある人はもう一回思い出してほしいんだけど、

実は「目」から始まるんだよね。

(引用元:DVD美しき緑の星,©コリーヌ・セロー,やつは株式会社)

いろんな動物の目が描き出されるところから、この映画はスタートするんだ。

この瞳というのは、宇宙経済的にも人体端末理論的にも重要だ。

なぜなら、瞳はその人の記憶、過去の記憶というものが蓄積される場所なんだ。

記憶には2種類ある

そして記憶には2種類ある。

①前頭葉、脳海馬からつながる集合無意識=亜空間知能をベースとした記憶(記録)

瞳の記憶=本当の自分の記憶、関係性主体の記憶、自分らしい肌触りから導き出される記憶

そんな2つ目の記憶は視床下部の中の松果体という部位で映像処理されているんだ。

そしてこの松果体の輝きというものが、なんと瞳に反映する。

だから、「瞳を見ればわかる。」と。

人体の中で唯一整形ができない瞳というものに、隠しきれないその人の過去=記憶というものが蓄積されるということなんだ。

逆に本当に冷たい目をしている人とか、自分大好き人間の目っていうのも共通して似てくるんだ。

たとえば、爬虫類の目とか蛇の目って温度がないというか冷たい感じがするよね。

けど、それが哺乳類、人間と進化してゆくにつれて、他者との関係性を算出するようになり、瞳に輝きが映り込むんだ。

だから、瞳からその人を算出するということも、この宇宙においては重要なトピックになるんだ。

貨幣制度がない!?”進化”した文明スタイル

一番最初の、別の惑星の地球に誰が派遣されるかという会議では、みんな自分の資質を活かしたコンテンツメイキング、その才能を持ち寄って持ちつ持たれつ、お互い様の関係性で成り立っている社会が表現されていたね。

これが真の時空協働創造態
まさに目指している新天地=アナザフロンティアの姿そのものなんだ。

そこではみんな自己解析もせずにただ権利収入を追ったりとかする必要もない。

そもそも貨幣制度もない。

要は自分の肌に合っていないことをさせられたり、しなきゃいけない、そういうことがないんだ。

できないことは、できる人に頼る。

まさにワンピース、麦わらの一味のような、それが大きくなったような社会が実現している。

そして結局、ミラが地球に派遣されるんだけど、地球に行くと、

野蛮な人たちが沢山いる星だから危ないんで、「切断する力」を持っていくんだね。

「切断」ってなに?何と何を切断するの?

何か困った時は切断すれば・・・。

地球の人たちは、切断されると急に木に抱きついちゃったりとか、靴を脱ぎ捨てたりとか・・・
急に奥さんに花を買ってったりとか、テレビをいきなり捨てたりとかしちゃうw

でもさ・・・

「切断」って意味深な翻訳じゃない?

これっていったい何を意味しているんだろう?

切断の本当の意味

これ、いわゆる自我フレームとの切断、亜空間知能との切断を意味しているんだ。

つまり、脳海馬から前頭葉へのリンクにより、形成された自我フレームを切断して、
松果体ベースの自分の本当の肌触り(子供心というもの)を取り戻すというのが切断の意味なんだ。

急に子供に返ったような感じになっちゃうんだよね、切断された人たちはw

しかしそれは、ある種、覚醒ともいえる…

さて、何が覚醒しちゃうんだろうね?

「交換」:人体はテレパス可能なアンテナだった?

もう一つ気になったキーワードが「交換」だね。

主人公の女性が地球には添加物だらけの物しかないから食べるものがない!
ってなる場面。
そこで、子供との「交換」をすると、しばらく何も食べなくても大丈夫になってしまうw

これもなんか意味深な表現だよね。

これはね。ネタバレすると、バイオフォトンの交換なんだけど・・・

ちょっとね、それを話すと長くなっちゃうから、この話はまた今度。

テレパスのヒント

話は変わって、派遣されたミラの息子たちが後から来るシーン。

ミラはフランスに派遣されるんだけど、息子たち全然別の場所に来ちゃうんだよね。

そしたら、息子たちはそこで先住民族と会っちゃう。

そしてなんと、その先住民族というのは、まさに派遣されてきた別の惑星の人たちと同じような生活スタイルでくらしているんだ!

とてもテレパッシックな感性を持ちながら、自分たちの才能を交換しながら成り立っているコミュニティを形成している人たち。

(この部分については「ミュータントメッセージ」っていう本でも書かれているから読んでみてね)

そして、フランスでは、ミラが足を水に浸けて情報を感受している。

これもネタバレしちゃうと「アーシング」地球=惑星との「接続」を意味している。

不思議なことに、日本にも「足を洗う」っていう言葉があるように、昔の日本人には、家に帰ってきたら足だけお水に浸けて洗うという習慣があったんだよね。

諸説色々その理由は言われていますけど、フランスにこの習慣はない。
これも、なんだろうね?というところも奥深いところ。

一見、見過ごしがちなちょっとしたシーンに意味深なカットが多々隠されている映画なんで、一回観ただけだとそこまでは読み解けないんだよね。

なんか知らないけど葉っぱを見つめてしまうシーンなんかも、黄金比で内的秩序そのもの。

この世に完全独立した情報となるものは一つも存在しない。

全ては算出法=計算式そのもの、それがバイオフォトン(同期並行計算機能)そのものなんだ。

木々の葉っぱのつき方や葉脈の形、流れ方そのものに現れている黄金比。

そういったものが一瞬だけさっと出たりとか、わかりにくいっちゃぁわかりにくいけど、深い映画だなと。

バッハも?イエスも?「分離」のない世界からの派遣者だった!?

最後に先の女性も元の惑星に戻っていくんだけど、地球に派遣された時にいろんな音楽を聴いたりとか、
CDショップに行った時には、CDに手をかざすだけで音楽が聴けちゃう。

一緒に同行した地球の男の人も、僕もやりたいと手をかざすんだけど・・・

時間同期

これはまさに「時間同期」を意味している。

物体というものに流れる時間、過去の歴史そのものを情報処理して認識する時間同期自体を描いている。
言ってしまえばサイコメトリーの本質でもある。

(引用元:DVD美しき緑の星,©コリーヌ・セロー,やつは株式会社)

バッハも彼らの中で派遣された人らしいけど 、イエスも派遣された人らしいよw

いろんな音楽を聞くんだけど、結局彼らの社会の中ではロックミュージックとかはなくて、彼らは静寂を好むというのも深いところで。

最後はみんなで静寂の儀式みたいな、ただ静かに何もしないで静寂をただ見つめるということをやっているところが描かれて終わっていくんだけど、あれは彼らの切断式みたいなもの。

別の惑星、地球とはレベルが違うコミュニティを形成している彼らでさえも、自我がないということではなくて、自我はあるんだ。

自我は絶対悪ではなくて、生きるために必要なものでもあるんだね。

ただ自我フレームがでしゃばりすぎる時には、それを静寂の儀式で抑えるようにする。

それが0ポイント、中庸に立った状態。

一切の差をとった状態、差取りの状態。

上下対立を生み出す分離のない世界、関係性の記憶のみで成立している世界にもう一度戻る。
個というものに囚われない状態。

いろんなところで、面白い描写がされていて、ただなんとなく見るだけでも感化される部分は多い凄く良い映画だと思うよ。

それでも世界は急に変わらないから・・・

ただ注意してほしいのは、あくまで映画というフレームの中で、
現代人にもわかるような表現で描写されているので、誤読したり誤解しやすい部分もあるということ。

これはキリスト教とか仏教でもそうだし、真理に近いことを仮に教えていたとしても、
それをどう理解するかによって全然違うものになっちゃう。

よく伝言ゲームで最終的に全然違うものに伝わっちゃうのと一緒で、仏教やキリスト教も誤読の連続なんだ。

この映画も、わかりにくいというか、表現の仕方があくまで映画の中でされているから、
そこを変に極端に捉えすぎないでほしいなと思うし、注意してほしいかな。

ちなみにこの映画を見ると「切断されてしまう」ということで、
上の権力者の支配階級の人たちが葬り去ったんではないかという説とか、いろいろ言われてるんだけど、

勿論、この映画をただ見るだけでは「切断」されることはないからねw。

大事なのは、この映像を見て、ただ感化されたりとか、なんとなく観るんじゃなくて、
実際に明日からの生活の中に取り入れられる具体的なヒントや学びをどう見出すかだと思うんだ。

そう、「ただ愛だよね」とか、「ただお金じゃないよね」という言葉に完結しちゃうのは、
地球においては、無理な話なんだよね。

ただ人類愛を説くだけでも・・・

こうした世界観が素晴らしいことはもちろんで、
この世界観をちゃんとこの地球のテクノロジーや経済とうまく共存させながら、
うまくデュアルに結びつけながら違う経済圏に少しづつフェイドアウトしていく、シフトしていくしかない。

極論は危険で、大体上手くいかないのが世の常なんだ。

最後に、現代人にとっては本当に大切なことや忘れていたこと、
そしてヒントとなる部分もうまく映画として面白おかしく描写してくれているので、
そこはフラットな気持ちで観てもらえれば面白いんじゃないかなと思うよ。

 

 

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