ここが変だよ『一神教』!日本人の知らない「キリスト教が流行らない理由」

日本人ほどキリスト教カルチャーを取り入れながら、キリスト教をフルシカトしている民族もない。
クリスマス、チャペルで挙げる結婚式、結婚指輪、全国の高校や大学で歌われる讃美歌・・・。
日本に生まれて、これらと全く無関係に生きることはムリ。
にもかかわらず、この国に暮らす人々は「神」をほとんど信じていない!
一体どういうことなのか、日本人の知らない世にも奇妙な『一神教』の世界観に迫ります!
日本人と神、相性悪すぎる問題
この国では現在、毎年12月24日の未明から25日の朝にかけてサンタクロースが自宅を訪問。プレゼントをもたらすという風習がある。ほとんどの子どもが幼少期にこれを経験し、世代を超えて受け継がれている。また、家族だけにとどまらず、学校や職場、恋人や友人関係でもこの風習は積極的にとり入れられており、街にはクリスマスソングが1ヵ月以上に渡り鳴り響く。
多くのカップルは結婚の際に結婚式を挙げる。場所はキリスト教のチャペルの場合が多い。そこで家族や友人に見守られながら、牧師の前で「神」に「愛」を誓う。お互いに結婚指輪を交換し、左手の薬指にはめ合う。パシャパシャと撮られた写真はSNSで広く拡散され、いいね!を待つ。ちなみに牧師はアルバイトの場合が多い。
また、一部の子供はキリスト教系の学校へ進学した場合、聖書を習う。教会で讃美歌を歌うことが学校行事として奨励されてもいる。生活に密着したキリスト教の文化を、3年かけ学ぶ。
これだけ見れば、なんと立派なキリスト教国なのだろう、と思う。
しかし、実際はそうではない!
この国のキリスト教徒は、全人口のわずか1%にすぎない、超マイノリティーな存在だ!
これほどまでにキリスト教のカルチャーを取り入れながら、肝心のキリスト教については気持ちいいくらいに無視している国民は、世界中探してもどこにもいない。ほかのアジアの国々でも、もう少しキリスト教徒はいるものだ。(韓国29%、中国5%、ベトナム10%)
どうしてこんな状況が生まれたのか?
それは、キリスト教の世界観が「唯一神」を信仰する『一神教』をベースに出来上がっているからだ!
この『一神教』の世界観は、日本人とはめちゃくちゃ相性が悪い。
なぜなら日本は「ヤオヨロズ」な世界観がベースにある神道や、「空」を教える仏教や禅の世界観の上に立つ『多神教』国家だからだ。
しかも、多くの人が忘れているがこの国はつい150年前まで、約200年に渡って『鎖国』していた「ひきこもり体質」でもある!
つまり、日本人の体質と『一神教』は、なかなか相いれない「水と油」なのである。
しかし、実際のところヨーロッパやアメリカの文化や政治、経済やエンタメは、驚くほどキリスト教的な『一神教』をベースに生み出されている。
だから、ぶっちゃけいくら英語を勉強しても、映画や音楽をむさぼっても、「聖書」を中心に展開されている『一神教』の世界観を理解していないと、西洋人のカルチャーを理解することはむずかしいのだ!
にもかかわらず、ほとんどの日本人がこのことを理解していないのが現状だ。
なんとなく一神教を学ばず、なんとなく国際社会から取り残されている。
21世紀の日本人にとって「『一神教』の世界観を学ぶ」ということはとてもクリティカルだ!
というか、ここさえ押さえておけば後はどうとでもなるとも言える。
映画や音楽、政治や経済、宗教や戦争、エンタメやニュースまで、西洋文化のあらゆることが、驚くほどシンプルに読み解けるようになるだろう。
ほとんどの日本人がよく理解していない、学校でもイマイチよく教えられない『一神教』の世界観ってどんなものだろう?
そろそろ英語も自動翻訳されそうですし、ダイレクトに『一神教』をSONKYO-ZINE的な視点から学んでみませんか?
そもそも「聖書」って何?そんなにスゴイの?
そもそも日本人の僕らにとって一番ナゾなのが「聖書(Bible)」ではないだろうか?
聖書は世界一のベストセラーだ。
その発行部数は分かっているだけでも40億冊以上!
あの「ハリー・ポッター」シリーズでさえ世界中で4億冊だというから、いかに聖書の発行部数がずば抜けて多いか分かるだろう。
しかし、キリスト教を華麗にフルシカトしてきた日本人にとって「聖書」はナゾ多き書物である。
実際になにが書いてあるのかもよく分からなければ、いつ、なんのために読むものなのかも分からない。結婚式にチャペルで牧師さんが小脇に抱えているモノ、くらいのイメージで一生を終える人が圧倒的に多いだろう。
「聖書」というのは、簡単に言えば「歴史書」だ。
こういう風に世界はできて、こんな人たちがいて、こんな感じで葛藤したり喜怒哀楽の人間ドラマがあって、教訓がありましたよ!良い子は学んでくださいね!といった感じ。
こういう風に人は生きていけばいいんですよ!
という人生の教科書のようなもの。
それを教える場所が「教会」で、教えてくれる人のことを「神父」さんと呼んでいるのだと、とりあえず分かりやすくイメージできればまずはOKだ。
学校に入るとはじめに教科書が配られるように、キリスト教に入ると聖書が配られる。
つまり、聖書がないとキリスト教の教えそのものがはじまらないんだね!
だからこんなに世界中で発行されているというわけ。
ちなみにキリスト教徒の数は、世界中で現在23億人。これも世界一。
ひとり一冊聖書を持っていると考えても、23億冊になるわけだから、そりゃポッターもかなわない。
教科書だと言われればこんなにも分かりやすくイメージできる。
それなのに「聖書」の持つ印象が、私たち日本人にとってどうしても難解なイメージになってしまうのはどうしてだろう?
その理由が、『一神教』だ!
『一神教』信者がこの星の過半数
『一神教』の世界観は、「唯一神」の下に私たちの世界が存在しているというイメージを作る。
「どこかに一番偉い「神様」がいて、その下にみんなが暮らしているんだよ!」
ということだね。
この『一神教』の教えはキリスト教だけのものじゃない。イスラム教やユダヤ教もそう。
合わせると地球上で40億人が『一神教』の世界観を信仰している信者だと言われている。
そもそも、キリスト教もイスラム教も、同じユダヤ教からはじまった宗教だということをご存じだろうか?
アメリカをはじめとしたヨーロッパ諸国によって構成される「キリスト教文化圏」と、中東の国々によって構成される「イスラム教文化圏」。
この2つの地域の間では、長いこと戦争が続いている。
最近でもアフガニスタンやイラク、シリアへの侵攻など、慢性的な戦争状態にあることは誰もが知るところだろう。
しかし、キリスト教もイスラム教も、もともとは同じ「聖書」を信仰していたユダヤ教から派生した、いわば兄弟のような関係にあることを、どのくらいの日本人がハッキリと理解しているだろうか?
この兄弟喧嘩が、いつ、どんな風にはじまって、なぜ終わることなく続いてしまっているのか。
しかもそれが、僕らの日常にめちゃくちゃ影響しているという現状も、学んでいけばちゃんと分かるのだけど・・・。
多くの日本人は、このことをよく知らない。
いつも使っている車のガソリンも、道路のアスファルトも、今見ているスマホやPCの画面が光るのも、『一神教』の世界観に影響を受けていることは、あたりまえにリアルだ。
どうしてキリスト教徒とイスラム教徒の間にケンカが絶えないのか?
それは、『一神教』がもともとめっちゃケンカしやすい世界観だからだ!
そりゃケンカになるだろ!
キリスト教もイスラム教も、「神」の存在を前提にしている。
それも「唯一神」という、絶対的な存在だ。
「唯一神」がいて、その「神との契約」をしているから「人間」だ、という世界観が前提にある。
仮に、誰もが「同じ神」を唯一神としてあがめていれば、大きな争いは起こらず平和が保たれるかもしれない。
しかし、もし「別の神」を唯一神としてあがめる者同士が出会ってしまったらどうだろう?
何かの拍子に、
「オレの神様が唯一神なんじゃ!お前の神はインチキだ!」
「なあぁにいぃぃ!???お前の方こそウソに決まってんだろぉお!!」
「んなぁあワケねえぇだろおぉぉお!!!お前の方がうyfdfgふいjっ!!!!!」
となってもおかしくない。つまり、簡単にケンカしそうじゃないだろうか・・・?
お互いがお互いの正当性を一方向に主張し合い、対立し、それをぶつけ合う。そういうことがいつ起こってもおかしくない。
実際に歴史上で起きたことでいえば「奴隷貿易」があげられる。
産業革命により、船が発明された16世紀。ヨーロッパのキリスト教徒は世界中を旅し、肌の色の違う人々と出会う。
「この人たちは同じ人間なのか?」
そのことを問う質問状を、キリスト教ローマ・カトリックの総本山であるバチカンへ送った。バチカンからの返答は
「人間ではない」
だった。
こうして「人間ではない」ものを「奴隷」という商品として扱う奴隷貿易がはじまったというわけだ。
なぜバチカンは肌の色の違う人々を「人間ではない」と断じたのか。それは彼らが「神との契約」をしていないという理由からだった。
神に認められていないから、人間でもない、という理屈。
こんな一方向的な理屈でも、成り立ってしまうのが「一神教」のおそろしさだろう。
「唯一神」を信じるということは、そういったリスクが同時に生じるのだ!
このことは、子どもの視点で『一神教』の世界観を学べば、シンプルに理解できる。
なぜなら人は誰でも弱いもの同士だからだ。
宗教はもともと「教育」だった
人は、自分が盲目的に信じているものを否定されると、それに反抗したがる。また、自分が正しいと思っていることと、別な考えや価値観を持っている人に自分の正しさを押し付ける。
そうしたことを不用意に行ってしまう弱さがある。
なんの宗教を信じていなくても、誰にも偏見や思い込みはあるものだ。
それは、けっこう昔から変わらない人の姿だろう。
こういった弱さや勘違いや思い込みから自由になるために、「教育」はあった。
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「正当化するに値しないことを正当化すること」
今の世の中は建前上、本当に正当化すべきことを人民が多数決で決められる「法治国家」となっている。しかし実際のところはどうだろう?このように本当に正当化すべきことは、色々な人々の総意の下で『多角的』に決められることが必要である。
そしてこの『多角的』とは?《多数決》とは全く違うもの。
それでも一緒に生きるため。狩りに出たり、家を建てたり、畑を耕したり、電車を走らせたり。
共に組んで、なにかを作り、生み出し、暮らしを守るために、人は己の一方向的な偏見や思い込みをとり除く努力をする必要がある。
それをアシストするのが「教育」だ。
人と人が組みやすく、働きやすくするために、教え合って学び合うこと。その習慣が、人類を発展に導いてきた。
キリスト教やイスラム教の聖典となっている「聖書」、この起源はモーセが授かった「十戒」にさかのぼる。
奴隷として虐げられていたイスラエルの民を救うべく、海をパックリ割ってエジプトを脱出したモーセ。
しかし、40万人という群衆を率いるのは容易なことではなかった。
国を捨て、荒れ野をさまよう彼らを率いるために、なにかルールが必要だった。そのとき授かったのが「十戒」である。
神「おーい、モーセ!ずいぶん困ってるみてえだなあ」
モーセ「そうなんすよ!40万人まじ多いっす!みんなバラバラなんすよ!」
神「よし!オイラがとっておきの教育プログラム伝授してやんよ!この10個の教えされ守ってれば助けてやるぞー!」
モーセ「まじっすか!ありがとうございます!」
こうしてモーセが授かった十戒をもと生まれたのが、ユダヤ教の聖典「旧約聖書」だ。今となっては分厚い聖書だが、もともとは10個の教えが記された石板だったんだね。
ちなみに、モーセの十戒の内容がコレ
- 主が唯一の神であること
- 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
- 神の名をみだりに唱えてはならないこと
- 安息日を守ること
- 父母を敬うこと
- 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
- 姦淫をしてはいけないこと
- 盗んではいけないこと
- 隣人について偽証してはいけないこと
- 隣人の財産をむさぼってはいけないこと
(Wikipediaより引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92)
シンプルでしょう。
このシンプルな教えをしっかり教育して、40万人の民を導くことが、当時のモーセに課された「神」からのプログラムだった、というわけだ!
実際には、モーセはこの教育プログラムをうまく普及させることができず、40万人は荒野をひたすらさまよう羽目になるんだけど・・・。
そのしくじりも教訓として生かせるよう、ちゃんと後世に伝えるための手段としてまとめられたのが「聖書」という書物。教育プログラムを普及させる教科書的な役割というわけだ!
あれ・・・?でも、ちょっと待ってほしい。
モーセの十戒の2番目を読むと、こう書いてあるぞ・・・?
偶像を作ってはならない。(偶像崇拝の禁止)
ちょいとキリスト教はん・・・、矛盾してるんやないですか・・・?
十戒の矛盾を解くセンス
モーセの十戒が禁止した「偶像崇拝」だが、現代のキリスト教は偶像を作りまくっている。
教会などで目にする十字架にはりつけられたイエス像はまさに偶像だ。
それに祈りをささげることは、禁止されていたはずなのに。なぜそんな光景が・・・?
このことを理解するには、そもそも「『一神教』を作れ」とは「神」は言っていないということを理解しなくてはいけない。
そもそも「神」が届けたかったのは「教育」だ。バラバラに争ったり、過干渉してグダグダになることを避けるためのプログラムが十戒だった。
でも、唯一の神を信じろって書いてあるじゃないか!
と、言うかもしれない。
が、ここに「矛盾を矛盾なく扱う」センスがもとめられる。
なぜなら「神をあがめる」ことと「偶像を作らない」ことは矛盾する。脳内で神をイメージすることすら偶像だからだ。
脳内にVR空間を作らずに、「神」をあがめるには、どうすればいいのか・・・?
このことを詳しく書くにはさすがにスクロールが足りないので割愛する。
が、もし「神」が「会える」存在だとしたら、わざわざ像を作る必要はなくなるのではないか?
もし「神」が、超越した存在ではなく、私たちとあまり変わらない「ちょいと賢い人間」だったとしたら・・・?
矛盾を矛盾なく扱えるはずである。
そして、的確な「教育」を与えてくれたナゾも解けるだろう。
一神教オンチな日本人の役割
「聖書」に登場する「神」や「天使」。その存在がなんなのかが分かれば、「一神教」にハマらずに聖書が指し示す「教育プログラム」の意味が読み解けるだろう。
21世紀に求められるのは、そういうセンスだ!
そしてそのセンスを発揮できる可能性が、何を隠そう「日本人」にはあるというわけなのだ。
つまり「一神教」の世界観にハマらずに、俯瞰して理解することのできる民族。「ヤオヨロズ」や「空」といった、固定化された偶像を脳内に作らずに、人生や目の前の関係性を捉えられる民族。
そういった物の見方に長けている人でないと、「一神教」が犯してきた過ちの歴史を冷静に見て、修正することができない。
ぶっちゃけ幼少期から「一神教」をすり込まれていると、その世界観を後から否定するのはとてもむずかしい。
むしろ、なにも知らないまっさらな状態で学びだす方が、偏見が少なくてリアルな現状を明晰に理解できるかもしれない。
日本人が現代で『一神教』を学ぶということは、ただ単に自分が賢くなるということ以上に意味があることなのだ。
平成の世に暮らす我々がもう一度日本人として自問自答しなくてはならないのは「近代」と「西欧文明」を、礼節のある御上と家臣に護られていた「倭国的な幸せ観=江戸風情」に照らして日本人として多角的に位置づけているか?そして「百年後の我々が住む近代」は「百年前の逝し世の近世」より軍事兵器の発達度合いだけで、本当に文明度の高い時代だと断言できるものなのか?
今、平成アメポンの私たちは、長州・薩摩政権の書いた歴史を物差しとして時間軸を引いた世界線を無知に生きている。そもそもこの物差しが狂っていることに寺子屋崩壊の100年後の世界線を生きている平成倭国の我々は、いい加減に気づくべきであろう。
その目印こそがD明治である。勝海舟や山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる方々や吉田松陰先生など幕末のカオスの渦から逃げずに激しく自己対話した公人堅守の礼節美を極めた闊達なシャムライたち。義を護る明治人の生き様から学ぶ事をRSELではD明治と敬意を評し呼んでいる。
クリスマスや教会のチャペルや結婚指輪にもそろそろ飽きたわ~、というあなた。
そろそろ人生にまじでクリティカルな学び、はじめませんか?