
セイジさん、こんにちは!
散歩中、山に入れるくらいに山が近くなんですねー。
いいですね。
そして、形と数式の話とは、これまたアバウトな…笑
でも、物理科学や数学には僕は詳しくありませんが、
カタチに関しては青春侵略的には最上級に濃すぎるところですよね。
普段あまり意識しないことですが、実際人間がカタチを認識する能力・機能というのはめちゃくちゃ高精度で、まだ視覚的にはボヤーッとしか見えていない赤ちゃんでも、人間の顔とただの顔のカタチを区別する、といいます。
ある実験で、いつもにこにこしている母親が、赤ちゃんを真顔で見続けたらどうなるか、というのがあるんですけど、実験がはじまると、赤ちゃんは即座に異変を感じ取りますが「お母さんどうしたの?いつもは笑っているのに」と逆にニコニコ気にしていないように振る舞います。でも1分もしないうちに、不安でおろおろし出し、3分後には泣き出すっていう…。
微細な表情の変化を認識する力は、生まれたときから備わっているんですね。
で、これが濃すぎる話にどうつながってくるのかというと、”相似形”の話ですよね。
僕らは、何を持って”その人”を”その人”だと判断しているのか?
これを表すのに”面影”という言葉がハマります。いい言葉ですよね。
一言で言えば、カタチ以前のカタチ、というものがある。
で、もっというと”カタチ”というのは、そもそも”動き”でもあるわけですよね。
実際止まっているものは存在しないわけであって、僕らがカタチと呼んでいるものは、すべて”運動性”であり、”空間”であり、もっといえば”重心”といえるわけです。
カタチが歪んでいれば、それは”運動の流れ”=空間が歪んでいるし、重心がズレているということ。重心がズレると、偏った”動き”しか生み出さないし、偏りはどんどん増幅されていきます。
ということは、”その人”を”その人”たらしめているのは、その”重心”だという話にもなるのですが、それは目に見えるようで目に見えない。でも、確実に感じられる。
それを”存在感”といったりもしますね。
何が言いたいかと言うと、カタチが歪んでいると、カタチの奥にある動きが偏って、重心が崩れる。
そうなると、存在感=相似形=面影がなくなり、誰にとっても誰でもない、代替可能な存在=カオナシとなる。これを”頭重心”といっているわけです。
逆に、重心が整えば、”その人”が”その人”であるという中心が立ち、”存在感”が出てくる。これを下腹重心と言っています。
今の社会は、人を代替可能な”存在物”として扱い、コンクリートで足指がひん曲がって重心が崩れ、みんな存在感が希薄になっていく社会。
コロナになってそれはより加速したとも言えます。
だからこそ、社会の仕組みをすぐには変えることはできないけど、身体のカタチ=重心は整えることはすぐにできる。ということで、僕らはコロナ社会への処方箋として、蹲踞や足育をオススメしています。
人が互いに代替不可能な”誰か”、として大事にして生きられるように。
そして、人は”存在感”のあるものに”美”を感じますよね。
たとえば、なぜそのカタチなのか、というのは、宇宙的な濃すぎる問いで、
人が 美醜 を判断するのに、カタチというものが大きい。
たとえば、蹲踞の型とかでも、この人の型は崩れている、醜い、
この人の型は美しい、とかはじめてみた人でもわかるじゃないですか。
だから、人間にはもともと”美しさ”を認知する機能が、生まれたときから備わっているんですね。
カタチ以外でも、悲しい音楽を聞けば、人種や民族関係なく悲しい、と感じたり、夕日の色やカタチを見れば誰もが美しい、と感じる。
赤ちゃんを見れば、誰もがかわいい、と感じる。
夕日が四角だったら?夕日が紫だったら?
まったく違うフィーリングになりますよね。
赤ちゃんの顔がトゲトゲだらけだったら?
守りたいって思わないですよね。
夕日は、あの色であのカタチだから、美しい、どこか懐かしい、という気持ちが湧き上がってくるわけです。
人間の体はそういった、言葉を超えたところで共感し、感動し、つながり合っている。
どの時代でも、どの場所にいても、この”美しさ”を感じる宇宙共通の”色”や”音”や”カタチ”のことを、古代ギリシア人は『ロゴス』と言いました。その『ロゴス』が集合した場を『イデア』といい、これは人体端末理論的に言えば”触覚空間”といってもいいでしょう。
釈迦が説いた、因縁果の理でいえば、”因”にあたるでしょうか。
そして、このロゴス(イデア)に向かう力こそ、”エロース”=生きる力だと。
はじめにロゴス(触覚言語)ありき。
人は、触れ合い、触覚でつながり、感じ合うことから生まれてくる。
それを、エロース(性愛)というわけです。
”触覚”は宇宙共通言語。
『万物の声を聞く』=あらゆるものに共感=フュージョンすることができるのが、人体の持つ本来の機能なのです。
そう、カタチといえば、究極のカタチとは僕らのこの体。
人体=ユニバーサルデザインです。
ギリシア人が、彫刻でさまざまな理想とされる人体のカタチを残したのも、人体こそがもっとも美しいと感じていたから。
人体=ユニバーサルデザインは、宇宙共通のデザインであり、万物の尺度=宇宙のコンパスと定規。
何が美しいか、というのは、この体が知っているし、この体が”美しさ”を決めるんです。
逆に、頭は美しい、とは感じない。頭が美しいと感じているわけではない。
触覚を束ねる中心の丹田のエロースが引っ張られる方に、美しさ=ロゴスがある、というわけです。
だから、日本人はもっとも人体の姿勢=型=カタチを大事にしていた民族です。
本当の美しさとはなにかを、姿勢が整っていた昔の日本人は、どの階級の人でも、知っていたんでしょうね。
そして、もっとも姿勢が整った下腹重心の人体が、柱(中心)となって、”美しさ”の基準となり、人々を治めていた。
それが法(言葉)が人を治める近代法治国家以前の人治独裁の触覚文明というわけです。
もっとも蹲踞が美しい人が上に立てば、おのずから文明はうまくいく。
それが日本人の持つ感性=身体性だったわけですねー。
でも、近代に入って、人ではなく、法(言葉)やシステムが上に立ったことで、体が喜び、感動するような”美”を感じる機会はどんどん減っていき、
感性は鈍り、身体性(記憶=面影)が失われていった。
それが、戦争経済でもあり、現代人の体の歪みとなって現れています。
街を歩けば、四角四角四角・・・頭ばかり喜ぶグリッド社会です。
でも、こんな時代でも、人間が体=ユニバーサルデザインが持っている可能性というのは、実は少しも損なわれていません。
つまり、美しさを感じる感性は、誰の体にもあるし、いつの時代もそれは変わらない。
あまりに頭重心な日常を過ごしているから、普段は気づかないだけで、この戦争経済や情報社会に封印されたと思っているものも、実は体のほうが圧倒的に解像度が高いので、そんなに実は悲観することではないんです。
セイジさんのように、散歩して、自然を感じたりすることで、少しずつ戻ってくるものなんですね。
人体ナメちゃあイカンぜよっていう話で。
どんな環境でも時代でも=エロースは、その体の内側に流れていて、解放されるのを待っている。
コンクリートの下に青々と茂る雑草のように・・・。
さて、カタチの話が続きますが、
響社長が読み解いている近未来の科学の常識の中に、円と楕円の法則、というのがあります。
自然界に存在するあらゆるものは、実は”円と楕円”によってできています。
円と楕円とは・・・瞳型。
葉っぱのカタチ、女性器のカタチ、惑星のカタチ、銀河のカタチ、そして、人体の量子場のカタチ・・・
あらゆるものが、円と楕円でできています。
さらに言えば、僕らの人生そのものを表す5層対時空MAPでいえば、相似形は円、で複数称形は楕円を示しています。
つまり、もっとも抽象度高いカタチ=ロゴスは、瞳型というわけです。
だから、本当に”会いたい人”は、「目を見ればわかる」わけですねー。
「なぜキミがここに・・・??」
クラウドアトラス・・・まさに面影ですね♪
・・・いや~カタチ・・・濃すぎますよね。まさに宇宙。
・・・久しぶりに書きはじめたら筆が止まらない、
というわけでさらに濃ゆい話をしていきたいと思います。
実は、あらゆるカタチは円と楕円の運動の中にありますから、触覚を通じて、閃きとしてユニバーサルデザインが受信できる。
つまり、ユニバーサルデザイン=5層対の中に既にあらゆるロゴス=色・音・カタチは存在している。
これを20世紀の天才哲学者ハイデガーは、”世界内存在”と言いました。
これは、どういうことかというと、世界は外にあるのではなく、”内”にある、ということです。
「外なんてねー、ていうか外出たことねーだろ!」
とハイデガーおじさんは僕らの存在の秘密を、暴いてしまっていたわけですねー。
外に世界がある、と思い込んでいるから、僕らは存在感(エロース)がうす~~~くなり、テレビのニュースやスマホのレコメンドにただ反応する自動機械のように・・・
で、これは、近代の科学技術、僕らが使うスマホや身の回りの道具とも密接に関わっていて、
かんたんに言うと、僕らの身体の扱い方が、道具=技術に反映されている。
なぜなら、世界は内(5層対=ユニバーサルデザイン)に”ある”からです。
ここに、僕らが代替可能な誰でもない”道具存在”として、存在感がうす~くなっているこの近代社会を読み解くカギと、
これからの近未来への可能性を切り開く最大のカギがあります。
つまり、一言で言えば、カラダのカタチを整えれば、”閃き”はやってくる!
それは新しい技術の”カタチ”。
まさに、そのカタチ=設計図を式に起こして、再現性の高い科学として、実際にカタチに起こせるエイリアンズ科学者がいずれ出てくるでしょう。
そうなったとき、ニコラ・テスラが読み解いた明るい科学の続きをアップデートしていくことにもなります。
そして、その明るい科学は必ず、人体や自然と親和性の高いカタチになっていて、人々の身体を守り、育て、活かし、
代替不可能な存在として、濃すぎる存在感を互いに感じ合う文明=アナザフロンティアへとつながっていく、というわけですねー。
これぞ、青春侵略!
ここに惹かれ、憧れ、エロースをたぎらせるのが、僕ら青春エイリアンズだ!
というわけで、今回の濃すぎる青春侵略はこのへんで。
バイビー♪