人類にとって『言葉』は敵なのか?味方なのか?
目次
コトバとは何か?
人間と動物の大きな違いの一つとして、『言葉』を持つということが挙げられる。
そして、それによって人類は大きく発展してきたよね。
言葉は、この世界のあらゆる存在に『名称(ネーム)』というものを与えてくれたんだ。
犬、猫、人間、コーヒー、紅茶、日本、ブラジル、ちんこ・・・・
その名称を聞けば、僕らはその存在を容易に想像できるはず。
そして、自分の意志をより正確に伝えるために、言葉は時代とともに変化もしてきた。
でも、これだけ便利なコミュニケーションツールを持っているのに
僕らはなぜこんなにも他人と分かり合えないんだろう。
本当は分かりたいのに、うまく伝えられない。すぐに、すれ違ってしまう現実。
そう、僕らはコトバを投げれば、思いが伝わるかのように錯覚してるけど。
壊れるほど愛しても3分の1も伝わらない。とシャムシェイドがぼやいていたように
そもそも、言葉はとても不完全なものだということをもっと自覚しなければならないのかもしれない。
改めて・・・コトバとは、何のためにあるのか?
答えは、コトバとは『コトバにできない領域』を指し示すためだけに存在しているものなのだ。
つまり、言葉そのものは本丸ではなく、ただの『矢印』に過ぎない。
そんな実態のない『矢印』に重要性を置き過ぎて、居ついてしまうということは、
立ち止まって、道路の標識をずーっと眺めてるようなもの・・・
永遠にゴールにはたどり着けず
次第に、目的地は見失われていく。
つまり、その言葉の奥にある微妙なコントラスト、背景や奥行き、その真意をくみとる力はみるみる衰えてしまうんだ。
これが、言語依存コミュニケーションがもたらす弊害。
夢、正義、愛、成功、幸せ、信念、友達、親友、仲間・・・
同じ言葉を聞いても、ぼくがイメージするものと、あなたがイメージものはまったく同じじゃないよね。
でも、それをひとつの名称に同一化してしまう、いわゆる『言語束縛』という鎖にしばられながら、ぼくらはこの星に生きているんだ。
スタンフォード監獄実験 ~言葉のもつレッテル効果~
そう。誰もが、あらゆる名称(ネーム)というレッテルを社会から貼られ、また互いに貼りあっているということ。
「日本人」「ドイツ人」「アメリカ人」「男」「女」「キリスト教徒」「仏教徒」「妻」「夫」「ギャル」「おじさん」「OL」「バーテンダー」「社長」「美人」「ブサイク」・・・
そして、その貼られたレッテルによって、自らのアイデンティティが形成されていることに気づいていないんだ。
映画にもなった、スタンフォード監獄実験という有名な心理学の実験を知ってるかい?
無作為に選んだ一般の人を、「看守役」と「囚人役」とにわけて、刑務所で過ごさせたところ、演技のはずが本当に人格まで豹変させてしまったというもの。
「抗議行動」「虐待行為」など、事態は次第にエスカレートしてしまい、2週間の予定だった実験は1週間もらずに強制終了されてしまったほど。
普通の人が特殊な肩書きや地位、つまりレッテルを貼られると、その役割に合わせて行動するようになってしまうということが証明された実験だった。
「A型」と知ったとたん、なんだか几帳面なところがある気がしてくるように。
名称というラベルには、それほどのパワーがある。
人間が作ったはずの言葉に
逆に人間が形作られてしまうなんて・・・
言葉と言葉の間を読むことの大切さ
言語束縛という鎖をほどくためには、もっと会話の中で、行間を読み取る能力も必要となる。
『行間を読む』とは『文章には表しきれない真意をくみとる』ということ。
昔から日本には、この『間』を大切にするという文化があったはずなのに、
現代では、科学や学問といった形式化された情報ばかりに焦点が当てられ、暗黙知の部分はおざなりにされがちになっているよね。
それは文字通り『間違い』であり、『マヌケ(間抜け)』な姿だと思わないだろうか。
あくまでも、暗黙知を伝えるために形式知が生まれたことを忘れてはならない。
本質は完全に形式化などできないのだから。
この世のあらゆる事象の中で、言葉で言い尽くせるものが一体どれほどあろうか。
(漫画バガボンドより)
言葉(形式)に囚われれば、人は盲目になる一方だ。
だから、一部の人にとっては、とても都合がよかったりもする。
今この社会(戦争経済)を形づくっているのは人ではなく、言葉だからだ。
広い意味で言えば、『お金』も言葉だ。
数字という言語を羅列したコミュニケーションツールなのだ。
あらゆる言葉をうまく扱える者たちが、ルールメイカーとして、地球文明を築きあげてきた歴史がある。
こうして言葉は、真実から大衆の目を背け、奴隷化していくための魔術として利用されるようになってしまった。
聖書 『はじめに言葉があった。』
聖書のはじまりには、『はじめに言葉があった。』と記されているという。
すべては言葉から始まったということだが。ここでいう言葉とは、ぼくらが使っている言語のことではない。
この宇宙全体、森羅万象をも包括した法則、理、内的秩序が存在したということだろう。
そして、その内的秩序という言葉から生み出された最も抽象度の高い情報が『スペクトル(=色)』『ソニック(=音)』『ホログラム(=図形)』
この3つの重なりによって、あらゆるものが形づくられていった。
そして、その枝葉の部分に、名称(ネーム)をつけた。それをボクらは言葉と呼んでいるんだよ。
その事象の中に潜む色音形は常に関係性によって変化するから、同じものなど実はひとつもないはずなのに。
固定化された名称を使い続けているという矛盾。
だからこそ、言葉に重きを置き過ぎることなく
さらに抽象度を上げた暗黙知の領域(色、音、形)を感じつつ言葉を使うセンスが必要なんだぜ。
どんなに物知りでも、ウィキペディアに勝てないように
形式知の世界において、人間はコンピュータの足元にも及ばない。
これから人工知能があらゆるものを呑み込んでいくであろう時代では、
言葉を超越した、ある種の原始的な感覚が重宝されるだろう。
意識してか無意識かは別としても、一流と言われる経済人は、そういった“言葉にできない感覚”を大事にしている人が多い。
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そう。考えるな・・・感じるんだッッ!!!!
言葉がないことは必ずしも不便ではないということを証明した民族『ピダハン』
アマゾンの奥地に住む『ピダハン』という民族には、ボクらが当たり前に使っている言葉が存在しないという。
それは、言語学の常識をくつがえすほど、謎の言語だということで世間でも注目を集めた。
ピダハンは、『昼・夜』という概念を持たない。
ピダハンは、『色・数字』という概念を持たない。
ピダハンは、『過去・未来』という概念を持たない。
ピダハンは、『ありがとう・さようなら』という概念を持たない。
一見マイノリティな彼らの言語や風習には、ちゃんと彼らなりの哲学があった。
【関連記事】謎の言語を操るアマゾンの民族『ピダハン』とは何者じゃい?
彼らを見ていると、言葉がないということは不便だという常識が覆されていくようだ。
むしろ、余計な言葉にまみれ、居ついてしまうことで、本質を見失っていた自分に気づかされるかもしれない。
リフレーミング(再定義)の重要性
だいぶ、言葉というものが不完全で、曖昧で、そしてコワイものだということが分かってもらえたかな?
だから、大切な人に、大切なことを伝えるときはワンパターンにならずに
なるべく文脈のレパートリーを増やして、いろんな角度から繰り返し伝えることが大事なんだ。
文脈の種類×回数を増やすだけでも、少しずつ真意は伝わり、
言語という不完全なコミュニケーションツールが作るギャップは埋められていくはずだから。
このサイトでは、あえて完全オリジナルの造語を多用しているのも、そんな意図があってのことなんだよ。
まとめ
『言葉』とは、人間にとって敵なのか?味方なのか?
その答えは一概にはくくれないだろう。
でも、コトバが僕らにとってとても深い意味をもち、影響を与えてきたことは間違いない。
そして、そんな諸刃の剣を、軽々しく、とても表面的に使ってきたということもね。
まーそうは言っても、きっと今日も、ボクらはいつものように
“変わらぬコトバ”を交わし合うんだろう。
まさるくん:お、やすの!久しぶり!最近“調子”はどうよ?
やすのちゃん:お久♪うん、“まぁまぁ”かな♪
“調子” “まぁまぁ”
そもそも、定義が曖昧なコトバってたくさんある気がするw
こうして、日常での会話だけを俯瞰してみると、いかに薄っぺらく、深みなど何も伝わらないやり取りを繰り返しているかがわかるよね。
まさるくん:確かに・・・なんか、言葉ってめんどくせーなぁ
やすのちゃん:そうね。いっそ、テレパシーで頭の中をピッパッって伝えられたらラクなのに・・・
そんな風に思った人もいるかもしれない・・・
そうそう。実は、その話をしたかったんだよ。笑
CIAやFBIが真剣に研究しているとも言われる『テレパシー』
長くなりそうなので、別の機会に。一緒に科学していこう。