【千日回峰行】失敗すると死亡!日本一厳しい比叡山の修行とは?

みんなー!修行してるかーい??

今日は修行好きと話したい。

何を隠そう、筆者は修行好きだからだ。

 

その昔、ドラゴンボールをみて舞空術の修行に取り組み、

―3時間近く手の中をみつめていたものだ

ハンターハンターをみては、水見式のチャレンジし、

―テーブルを汚しただけだった

今では、鬼滅の刃みて柱修行にワクワクしている。

 

修行って何て魅力的なのだ!!!

 

いつでも僕らは超人的な強さに憧れる!

だがしかし、その厳しさに、

「いやいや、無理でしょ・・・」

と現実に戻されるわけだが、

どうやら、マジで厳しい修行に取り組んでいるヤツらがいるらしい。

それがお坊さんだ。

シーア派, CC BY-SA 3.0 ,ウィキメディアコモンズ経由)

その中でもヤバい修行をみつけてしまった。

 

それが千日回峰行!

 

ちょっと前、クレイジージャーニーでも取り上げられ話題になっていたのですが、

数々の死者もだしたというその荒行を今回は調べてみました!

 

千日回峰行とは?

相応和尚により開創された回峰行は、文字どおり、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行です。

この行は法華経中の常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神を具現化したものともいわれます。常不軽菩薩は、出会う人々すべての仏性を礼拝されました。回峰行はこの精神を受け継ぎ、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝するものです。

引用元:天台宗総本山 比叡山延暦寺 公式HP,© 天台宗総本山 比叡山延暦寺

比叡山で行われる天台宗の修行で、法華経に出てくる常不軽菩薩になりきる修行だ。

(常不軽菩薩受難図(常不軽菩薩品第二十),小林直光彫刻)

ちなみに常不軽菩薩がどんな方かというと、

バカにされようが、迫害されようが『私はあなたを敬います』とあらゆる人に敬意を払い続けた菩薩

キングオブ敬意マン!

その精神を体現しようとするのが、この修行の趣旨なんだ。

 

「え、やらせ?」疑いたくなるほど驚愕の内容

(常不軽菩薩受難図(常不軽菩薩品第二十),©小林直光彫刻)

人に敬意を払う

その体現はいかにしてなされるのか・・・

 

『敬意をはらうだけでしょ?』

 

と思ったアナタは驚愕するかもしれない。

その敬意の表し方はとにかく激しいのだ!!これが千日回峰行だ↓↓

千日回峰行は7年間かけて行なわれます。1年目から3年目までは、1日に30キロの行程を毎年100日間行じます。定められた礼拝の場所は260箇所以上もあります。4年目と5年目は、同じく30キロをそれぞれ200日。ここまでの700日を満じて、9日間の断食・断水・不眠・不臥の“堂入り”に入り、不動真言を唱えつづけます。

6年目は、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日。7年目は200日を巡ります。前半の100日間は“京都大廻り”と呼ばれ、比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼し、全行程は84キロにもおよびます。最後の100日間は、もとどおり比叡山山中30キロをめぐり満行となるものです。

引用元:天台宗総本山 比叡山延暦寺 公式HP,© 天台宗総本山 比叡山延暦寺

激しすぎるだろ!

そんなやり方でなくても敬意は伝わりそうなものだが・・・

なんて不器用なんだ!

超絶ハードモード過ぎる!!!

逆に決して敬意だけじゃ収まらない、何かを得られる期待が湧いてくる・・・

 

失敗すると死者が出る??

内容をみて驚いてしまった!

もう想像するだけでシンドイ。

30キロ歩くを100日、200日とやっていくのも、そりゃシンドイ。

だが、何を隠そう。その後の9日間行われる『堂入り(=四無行)』が壮絶にシンドイのだ。

四無行とは、断食、断水、不眠、不臥を九日間続ける修行です。これは、食べず、飲まず、寝ず、横にならずこの4つがないということで四無行といいます。四無行は大変危険な行で、無事生きて行を終える確率が50%といわれています

引用元:天台宗総本山 比叡山延暦寺 公式HP,© 天台宗総本山 比叡山延暦寺

なんと生存率50%!!

二人に一人が死ぬ!

30kmの山歩行×700日のあとに餓死あるいは過労死の危機。

あの伝説の無理ゲー『超魔界村』もドン引きの無理ゲー感。

そこまで行ったら、逆に敬意すら忘れてしまいそうな絶望感。

アナタの敬意はもう伝わっているから!どうかお体を大事にしてほしい!

と言ってあげたい。

しかし、これでは終わらない。

修行の初期設定がヤバいのだ。

 

むしろ自害も!?

過酷な修行のさらに厳しい設定がコチラ↓

回峰行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠をいただき、生死を離れた白装束をまとい、八葉蓮華の草鞋をはき、腰には死出紐と降魔の剣をもつ姿をしています。生身の不動明王の表現とも、また、行が半ばで挫折するときは自ら生命を断つという厳しさを示す死装束ともいわれます。

引用元:天台宗総本山 比叡山延暦寺 公式HP,© 天台宗総本山 比叡山延暦寺

短刀を携え歩き、修行を途中で放棄する場合は、

切腹あるいは首つりによる自害が求められるというのだ!

厳しいぃー

自殺教唆じゃない!?と思われるが、法的にも、

宗教上の教義に則って「自分の意思で死を選んだ」という扱いになる可能性が高いらしい・・・

法までもが後ろ盾になってしまった。

もはや後には退けぬ。

決死の覚悟で彼らは千日回峰行へ臨むのだ。

 

達成者(満行者)=大阿闍梨はどうなったか?

これほど過酷な修行を耐え抜いた達成者(満行者)は、

大阿闍梨(だいあじゃり)と呼ばれるようになる。

大阿闍梨になった人は、過去1300年の歴史でなんと51人。

わずか51人だ。いったいどれだけの人が挑戦したうえでこの人数なのだろう・・・

そして、一体どんな人たちなのだろう?

それでは現在も生きている大阿闍梨2名を、その講演を抜粋してご紹介しよう。

星野圓道氏の場合

光永 圓道(旧姓:星野 )は、東京都出身の天台宗の僧侶で、北嶺大行満大阿闍梨(千日回峰行満行者)。

比叡山無動寺谷大乗院住職。

満行の後、彼は次のように語っている。

 さて、千日回峰行には精神論は全く説かれておりません。まずは作法・形を覚えることから入ります。形を覚えてはじめて心を込めることができるのではないでしょうか。回峰行では形ができるまで700日かかりますので、その後に化他行に入るのです。700日も行を続ければ必ず余裕が出てきます。その余裕を人のために還元する、それが化他行につながるのです。基礎として形をきちんと身につけ、そして人のための行に入った以降は手を抜くことなく、なお一層全力で行わなければならないと考えます。
以上が千日回峰行をとおしての私の考え、思いであり、それが「現在を生きる」ということにつながるのではないかと思います。

引用元:真言宗智山派 総本山智積院HP,©真言宗智山派 総本山智積院

塩沼亮潤氏の場合

塩沼 亮潤氏は、宮城県仙台市出身の日本の金峯山修験本宗の僧侶(仙台太白区 福聚山慈眼寺住職)。

大峯千日回峰行者(大行満大阿闍梨)。

そうして少しずつ見えてきたものは何か。日常にある当たり前の言葉であったり、マナーであったり、人としての礼儀であった。言葉にすれば、「ありがとうございます」「すみません」「はい」という、人と人をつなぐコミュニケーションの言葉に重要な意義があると気付きはじめた。そういう当たり前のことを徹底的に学ばせていただくために行というものがあるのだなと、47歳になった今も改めて思う。

引用元:GLOBIS知見録©GLOBIS

ここにきて残念なお知らせがある。

これほどの苦行をしても、どうやら超人にはなれないらしい。

お二人とも、超人になった様子がないのだ。

まことに残念である。

 

共通して「行」を通して何を得られたかを強調しない。

むしろ「行」ないし「日常」のプロセスにどう向き合うかを説いている。

 

それを聴衆は「ありがたい、ありがたい」と聞くのだが、

どちらかというと、その様子自体もひっくるめて、

「気づいたらどうですか?」と諭しているようでもある。

 

なぜなら、その話す内容はともすれば「当たり前」とも言われそうな種類のことばかりをお話になるからだ。

「当たり前は当たり前でないことは当たり前」と言われているようで、

「ありがたいのは私ではない、ありがたいのは目の前のあらゆることだ」

と仰っているように思うのだ。

苦行を通して見えるのは、その生き方であり、向き合い方であり、

『細部に神は宿る』と言わんばかりに、小さいことが大きいことだと、どの講演でも何度も繰り返し仰っているのだから。

 

僕らはなぜ修行したくなるのか?

膀胱眼球胎CC BY-SA 3.0、ウィキメディアコモンズ経由)

残念ながら、超人になりたい筆者の願望は儚くも敗れてしまいました。

そうなったからには、なぜ自身が超人になりたくなってしまったかを追求せずにはいられない。

はてさて、僕らはなぜ超人になりたくなってしまうのだろうか?

 

超人はカッコいいのか?

では、自分が超人になったことを想像してみよう。

僕はもう誰よりも強い人間になっている。

そうだな・・・

あの範馬勇次郎のように!

(引用元:グラップラー刃牙19巻,©板垣恵介,秋田書店)

地震をパンチで「ッチェリアアアァッ」と止め、

ちゃぶ台を指先で引きちぎり、

アメリカと個人で友好条約を結ぶほどに強くなったとして・・・

 

圧倒的な武を極め、地球最強の生物と呼ばれ、誰にも、国にすら負けることはない。

そんな状況で何を思うだろうか?

 

ただただ強くなり、さらに強さを求めて暴れ狂う!その姿。

いや~強い!!

しかし、冷静に考えると「あぁ、なりたい!」とは思えない。

 

なんか「飽きそう」なのだ。

圧倒的に何かがポッカリかけているのだ。

その強さは【冷たい強さ】そんな感じがした。

 

なぜ、アイツらの修行はカッコいいのか?

じゃあ、修行してる姿に何か感じるものがあるやつらって誰だ?

と考えると、週刊少年ジャンプにたどりついた!

ジャンプのキャラクターをみてみよう!

ワンピースのルフィ

(引用元:ONE PIECE 53巻,©尾田栄一郎,集英社)

海賊王になる!という少年は、数々の出会いに支えられながらも、

仲間を守れない弱さへの悲しみに打ち震え、過酷な修行に身を置くことになる。

この後も大切な兄弟分を失い絶望に臥すが、

それでも師や仲間に支えられながら、

再びこの島に戻る頃には、見違えるほど強くなっていた。

鬼滅の刃の竃門炭治郎

(引用元:鬼滅の刃6巻,©吾峠呼世晴,集英社)

純真無垢な少年は、失った家族を守れない悲しみと、

その弱さへの悔いと、せめて妹を人間に戻したいという願いから、過酷な修行に身を置いた。

しかし、何度も何度も壁にぶつかることになる。

ぶつかる度、誰かと出逢い、助けられる。そして犠牲が出る。

守れない!弱い!失う!助けられる!修行するの繰り返しでどんどん強くなっていくのだ。

 

他にもNARUTOの各登場人物や、

ハンターハンターのゴンやキルアだって、

びっくりするほど共通点がある。

少年性

庇われる

弱さ、悲しみ

助けられる

今度こそ守る!

修行

強くなる

天真爛漫な少年性を庇われるという関係性に生き、

弱さという現実に直面し、関係性(仲間、家族etc…)を守るために強くなるというプロセスを歩む。

 

守るために強くなる・・・

 

範馬勇次郎にかけていたのはココだろう。

 

個人戦でめっちゃ頑張った人はスゴイ?

僕らが強くなりたい本当の理由は段々とハッキリしてきたね。

誰もいないのに「ッチェリアアアァッ」と地震をパンチで止めたところで、

何もドラマは生まれない。

(引用元:グラップラー刃牙19巻,©板垣恵介,秋田書店)

↑急に寂しそうにみえてきたよ。

僕らはそんなものに憧れてなどいない。

それは生き方、働き方、稼ぎ方のどれにも通じる。

 

世の中にはいろんな成功者がいて、

一人で金融を勉強してFXでバカ儲けして強い個人になったり、

引きこもってオンラインゲームで世界1位の個人になったり、

一人でエベレスト登頂してスゴイ個人になったり、

壮絶な行を成し遂げる個人になる人もいるけど。

 

たどり着いた果てに、振り返ったら誰もいなかったら、やっぱり意味はないと思うんだ。

たぶん僕らは肚の底では、最強の個人になど最初からなりたくなんかないんだ。

 

僕らが本当に欲しがっているのは関係性

金銭や資産やスキルのリッチさなんかよりも、

人のぬくもりに溢れる、ぬくもリッチだ。

 

社会や学校は、自立することや、

スキルや専門知識、資格の力を求めることが、

まるで正しいことかのように突きつけてくるけど。

本当に求めているものはそんなんじゃないと、肚の底から、はっきりと表明したっていいんだ。

誰かのためにしか動けない自分がいるなら、それを認めていこうよ。

 

劣等感⇔自尊心という偶像崇拝

だから超人願望、最強の個人という偶像にかまけるのはやめにしようぜ。

範馬勇次郎にはなってもあまり楽しそうじゃない。


ちょっと存在が面白いだけだ(笑)

 

そしてその存在はどこか寂しい。

ジャンプの主人公たちとの違いは、

悲しみがないこと。

そして関係性がないこと。

守りたい人がいないが故に、奥底が冷たいこと。

 

今、範馬勇次郎になろうとしていないか?

 

その超人願望を抱いてる時は、必ずあるものに憑りつかれている。

 

それは劣等感。

そして自尊心=プライドだ。

 

劣等感を解消しようと焦れば超人願望が生まれる。

プライドを守り抜こうとすれば超人願望が生まれる。

その二極の振り子に振られている。

 

しかし気づいてほしい。

それはアナタの頭の中で行われた比較から生まれた幻=偶像だということに。

そのどちらもが、アナタの頭の中で勝手に作りだし、勝手に完結した出来事であり、そこに他者はいない。

そうなっているとき、僕らには守りたい人がいなくなっている・・・

 

なんとなく弱いという劣等感が先走り、何者にも負けたくないという超人願望が暴走してはいないだろうか?

その偶像で本当にみたいコトが見えなくなってはいないだろうか?

 

千日回峰行は・・・

だいぶ寄り道したね(笑)千日回峰行に話を戻そう。

結局、大阿闍梨も日常や挨拶が大事だと言っていた。

その意味するところは、

「その関係性を大事にすることこそ、結局一番大事だってことに一人になりまくってわかりました」

ってこと。

そして、僕らの日常は、そんなことに気づかないほどおかしくなってしまっているかもよ、ってことだ。

それはいつの間にやら、僕らが関係性を感じなくても生きていけるようになってしまったことを指す。

便利になった代わりにね。

人に支えられることを感じないほどのオートメーション化。

生きることに困らないほどの大量の生産。そして所有。

西洋的建造物で区画され、核家族で区画され、

個性が大事、個人の権利が大事と教育され、

どんどんと個を意識せざるを得ない。

その1億総自意識過剰=頭重心社会は、たくさんの勘違いを生み出した。

いや、今も生み出し続けている。

 

個人の呪縛がそこにある。

僕らはそこに中指を立てたい!!

だって、人が傍にいるじゃんか!

 

その呪縛が解ければ、世界は思った以上にやさしく、ありがたい。

このあったかい寝床と飯がある文明がありがたい。

人がいるってありがたい。

大阿闍梨たちは、その修行の最中、ただ一人個人しかいない世界を味わい続け、そのことに気づくことになる。

引用元:天台宗総本山 比叡山延暦寺 公式HP,© 天台宗総本山 比叡山延暦寺

結局は相手=対がいることの有難みを、嫌というほどカラダに叩き込むのが、この「千日回峰行」

そうしてジワっと敬意が溢れ出るようになれば、もう君は大阿闍梨!

 

そのことに気づいてしまえば、もう修行なんてする必要はないんだ。

 

だから、大事なのは学ぶことです

だから学べばいいのです。

一人ぼっちの頭の世界は虚構であることを。人がいることの安堵を。

そして頭の世界から出るには、カラダに向かうのが大事だということを。

そのために禅は生まれた。

 

無駄な思考を止めて、カラダに戻り、世界を感じろと。

 

これは空海、最澄の時代では仏道に入らないと学べなかったこと。

だけど、今はスマホを開けば学べてしまう!

だから今、キミはこの記事を読んでいる。

文を通して僕らはこうして出逢っている。

 

山走るくらいなら、スマホ開いて、

自分の特性を知ったり、

力合わせるために苦手なことをつぶしたり、

同じ志をもつ仲間を探したほうがいいんじゃない?

要はコミュニケーションだし、カラダを突合せた、持ちつ持たれつの関係性だ!

それを味わい尽くす。

 

そうすれば、日常の少しずつの中に敬意がみえてくる。

自意識空っぽにして、自分のできることをやっていく。

そこに集中していれば、自分のできないことも見えてくる。

 

というか「できないこと」ばっかだ。

それを自覚すれば敬意は自然と湧いてくる。

だって、今着てる服だって自分じゃつくれないし、

今日食べた料理だって、その食材を僕はつくれない。

家も作れない、布団も作れない、今使ってるPCもスマホも、

この後乗る予定の電車だって作れないし、動かせない。

できないことばかりだ。

 

そんな名も知らぬ人々に支えながら、僕らは生きている。

その一つ一つのおかげ様を感じること。

それが敬意の始まりだろう。

日常から離れないと、そんなことにすら気づかないほど、当たり前に過ごしているありがたさを感じ、

肌で感じ、『自分』というものが様々なものの中継地として存在することを、

骨の髄まで自覚することが、その『敬意』というやつなんじゃないかな。

 

大それたことをする必要はない。

自分のできることをやりながら、したいことへの利害調整をする。

その小さな積み重ねが、自身を生きやすい、求めていた関係性へと導く。

 

傍目からみれば、大したことのないその積み重ねが、

キミにとっては超Fitした気持ちいい仲間たちと出逢う『クレイジージャーニー』かもしれないんだぜ。

敬意も、感謝も、違和感も、苦しみや悩みも、

すべてキミにおこる現実であり、目印だ。

この現実こそ、時空からのプレゼント。

日常のあらゆるものを受け止めて、一個一個対話して、調整することが、

本当の修行なのかもしれないね。

 

そのためには、このカラダ、関係性、組織、社会、この星の歴史を学ぶことが大事だ。

令和の時代についていけてない自分。

変化している時代に変幻自在の体。

それを取り巻く、他者と組織と国と地球と宇宙と。

その5層をとらえたとき、キミの本質的な修行が始まると言っても過言ではない。

キミの今いる現在地。そして、進むべき道標はそこに刻まれる。

生きるってどういうことか?

その答えがその先にあるかもしれないよ。

 

最もらしい世の中に違和感を覚えているキミへ。

だけど弱くて、何もできないと思っているキミへ。

大切なものを失わないため強くありたいと願うキミへ。

僕らはそんなキミの弱さも願いも、想う存分肯定したいと思っている。

 

だってさ、弱くなけりゃ強さは生まれないんだぜ。

弱いからこそ、強くあろうとする。

弱いからこそ、教えを乞おうとする。

弱いからこそ、師匠を探す。

弱いからこそ、こうして出逢える。

弱いからこそ、力を合わせる。

弱いからこそ、学び続ける。

弱いからこそ。

僕はそんな生き方を教わった。

だから筆を執るさ。

僕らの弱さが交わるその接点で待ち合わせをしよう。

 

弱い僕らの遠吠えが、いつしか僕らの強さに変わるその時まで。

僕らは文を連ねるよ。

この声を配信していくよ。

届いたのなら、耳を傾けてほしい。

そしてキミの声も届けてほしい。

その交わりが、キミの現実になっていくことを、声高らかに宣言しておくよ。

だって、それが日常になってる

とても楽しみだ!

それじゃ、またね。