雲のでき方から学ぶ「雲水」な生き方
突然ですが
「人間にいちばん近い生きものは雲だ!」
と聞いたらどうですか?
え!?雲って生きものだったの?
と思うかと思います。
たしかに雲には骨もないし、心臓もないし、手足もない。生きものには見えません。でも見方を変えれば、雲ってとっても人間に近いものなんですよ。
「雲」をよく観察して、その動きやでき方、生態系のなかで果たしている機能に目を向けてみると、さまざまな発見があったりします。
「雲」から学べることは、とっても多いんです。
雲みたいに生きてみよう!
そんな心がけをしていたのが、「禅僧」たちでした。彼らは禅の修行中の自らのことを「雲水」と呼んでいました。
今日は、いつも真上にありながら、なかなかその存在を忘れがちな「雲」に迫ります。
目次
雲の移動範囲をこえるのは人間だけ
どうして雲がいちばん人間に近い生きものなのか。
それは雲の「移動範囲」を見ると分かります。
生物の進化を見てみると、その生きものの持つ知性は、移動距離と範囲に比例しているという見方ができます。
空を飛べる鳥や、大海を泳ぐクジラは、地中にいる菌や虫よりも広範囲を移動できます。移動の自由さで、その生きものがどれほどの知性を持っているのかを見るのです。
すると、この星での「移動チャンピオン」は、なんといっても「人間」です。
その知性は、「宇宙空間」へ出るほどの文明を創ることができたのですから。
この宇宙まで出れる人間の次に、移動範囲の広いもの。それが「雲」です。
雲は宇宙空間へ出ることこそできませんが、地上数百メートルからかなりの範囲にわたって”生息”し、どこへでも飛んでいけます。地球で行けないところはありません。
また、乾いた土地に雨をふらしたり、日をさえぎったり、姿を消して熱を宇宙空間へ逃がしたり。地上の生きものにとって無くてはならない役割を演じています。
雲がその役割を適切に演じてくれているから、地上の動植物は生活を営むことができるのです。そういった意味で、雲はこの現実にとって欠かすことのできないキャストです。
地球のどこの空にも移動できて、地上の環境を整えてくれる知性。それが「人間にいちばん近い生きものは雲」になる由縁です。
「雲水」ってなに?
修行中の禅僧が自らのことを「雲水」と呼ぶのは「行雲流水(コウウンリュウスイ)」という故事から来ています。
「行雲流水」とは
雲が空を行くように。水が川を流れるように。ものごとの変わりゆく流れに任せて、淡々と、執着せずに生きる様
を指します。
「雲水」は、ときに川になったり、海になったり、氷になったり、雲になったり、空気にとけたりする、雲や水の止まることのない性質から習い、生きることを意味しています。
まさにお釈迦さまの教えた「空」を体感するための「禅」の修行にぴったりの言葉ですね。
今、はたして「雲」のように生きられているか?
なにかに執着して、自分で固めたしがらみや考えでガチっと止まってしまっていないか?
もしくは、恐竜や虫のように、必要のない争いに飲まれてしまってはいないか?
そういった問いかけを常日頃から心がけていたのが「雲水」たちでした。
ちなみにこの禅僧たちですが、まだ平均寿命が30才程度だった鎌倉時代からすでに、
70歳以上の平均寿命と、とても健康的で長生きだったことが分かっています。
人間には万物から学ぶ力がある
人間が「万物の霊長」と呼ばれる理由は、宇宙まで出れる移動範囲や、文明を作ることのできる知性の他にもうひとつ、「感性」の豊かさがあげられます。
それは「学ぶ力」と言ってもいいかもしれません。
雲水たちが雲や水から学ぶことができたように、人間にはほかの生きものから見て習うことのできる「感性」があります。
他の動植物には、こういった能力はあまり備わっていません。
犬がカエルから学ぶことも、イルカが炎から学ぶこともありません。
しかし人間だけは違います。
人間は五感を使って、万物のあらゆるものから学ぶことができる生きものです。
もし日々の生活の中で、恐竜のように顎を出しながら、弱いものに食いついてむさぼる「弱肉強食」の世界を生きているのなら、その人は恐竜のような生きものを見習って生きているのかもしれません。
舞い込んでくるトラブルや面倒な事にとらわれず、地上の煩雑なできごとを回避しながら、軽やかに生きているのなら、その人は空を飛ぶ鳥のような生きものを見習って生きているのかもしれません。
あくせく働き、せっせと蓄えを増やし、道路にアスファルトを敷き、ルーティーンをこなすようにように生きているのなら、その人はアリンコのような生きものを見習って生きているのかもしれません。
同じ人間の住む世界でも、現実にはさまざまな人の動きが入り混じっています。
動物や虫の世界観が、ひとりひとりの人間の世界観と照らし合わされて展開されているとしたら、どうですか?
できるだけ自由で、美しい動きから見習って、生きてみたいと思うのではないでしょうか。
”全てをつなげる”雲水な生き方
「雲」というのは、すべてを丸く包み込んでいくようなものの見方や、感覚や、カラダ構えの象徴です。
「雲水」という言葉は、お寺で修行する禅僧以外にも、禅を習うひとすべてに使われたといいます。
日ごろ散歩したり、ちょっと出かける数分間の、ふとした瞬間に空を見上げると、そこに雲があります。
変な思想や言論にハマるより、自分の感性は今「雲」のようになれているか?
を照らし合わせながら生活するほうが、よほど健康的に人と関われるようになる場合があります。そういう考え方はカラダの健康という観点から見てもすごくいい。
ウォシャウスキー監督の映画「クラウドアトラス」も、そんな「雲」の動きからインスパイアされたストーリーです。
雲のように、ちぎれたり、集まったりしながら、人が出会い、別れ、また再開する物語。
人の人生も「雲」のように、出会いと別れを繰り返します。思いがけない再会や、気づくことのないすれ違い。突然の別れも、はじめてとは思えないような出会いもあります。
そういった糸と糸のめぐりあわせによって、人生は方向づけられ、彩られていきます。
雲はそれに抗うことなくただ流れて、やるべき役割を演じてゆくシンボルです。
すでに宇宙空間へ出るほどのテクノロジーを手に入れた人間の文明ですが、ひとりひとりの世界観は「雲」ほど自由にはなっていません。
むしろ頭の思い込みでガチっと固まったカラダで、不健康にアスファルトを歩く人が多い。
「雲水」な生き方とは程遠く、目先のプライドやコンプレックスに振り回される生き方からなかなか抜け出せていません。
これから宇宙へ出てゆく文明の次のステージへ至ろうとしている人間には、雲から見習う「雲水」な生き方の実践が必要なのかもしれませんね。